私は大学の商学部を卒業して大手証券会社で2年間の法人営業を経験したあとに、父が創業したX線装置の開発・製造をする会社に入社しました。当時18人の会社でしたが、現場・資材・生産管理・経理総務等を経験し、40才で社長に就任しました。(父はその2年後に他界しております。)
そして、43才で横浜電機精機工業団地協同組合の理事長に就任、それと同時に、横浜金沢産業連絡協議会理事就任(産業政策委員会副委員長担当)という重責を担うこととなりました。これは大変なプレッシャーではありましたが、同時に行政といろいろな場面でかかわる機会に恵まれることになりました。
協同組合ですので特に、神奈川県中小企業団体中央会との関係は強く、私も団地組合連絡協議会と工業委員会に所属させていただいておりました。また、組合金融でお世話になっている商工中金中金会の会合にもよく出席させていただいておりました。
昭和50年代に横浜市金沢区の埋め立て地に工業団地ができたときに、横浜市内の多くの中小企業が同業者で協同組合を設立して、進出してきました。横浜電機精機工業団地協同組合も昭和55年に設立され、当初は事務局長がおりましたが、平成10年からは事務局長を置かない体制になりました。
事務局長がいる通常の協同組合の場合は基本的に運営は事務局長に任せていることが多いですが、電機精機組合の場合は事務局長がいないので、理事長と事務局員の二人ですべての運営を行わなければなりません。大変ではありましが、逆に実務に精通することができました。
主な事業は電力事業(共同受電)と金融事業(組合転貸)でした。特に東日本大震災の時の電力使用制限令への対応は、組合全体で必死な苦労で15%削減を達成しました。金融機関との交渉や、組合員の入替、青年部主催の納涼会など、多くのことを実施しましたが、ほかの理事のご協力もあって、在任中の15年間、無事に理事長としての役目を果たすことができたと思いまします。
私は前職の代表取締役を退職した時に、組合の理事長も退職し、現在はその組合会館の2階に事務所を置かせていただいております。組合での役職も顧問という形でかかわらせていただいております。